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Posted by ミリタリーブログ at

2017年08月14日

MAAG 1950-1955 仏領インドシナ に、ついて。

今日はみりたりーあしすたんすあどばいざーぐるーぷ
の1950年の到着時から対南べへの軍事援助部隊になる1955年までの話です。
アポカリプス、ベトベト、ちょいナムなど多くのイベントが有りますが
1つとして年代レギュレーションが被るイベントが無さそうな...
はっきり言ってサバゲ位しか戦う場がないユニットの
更に深い裏話です。
因みにMAAGってベトナムだけじゃなくて
MAAG-カンボジアやMAAG-タイ、MAAG-ラオスなど東南アジアの赤化を阻止するべく設立された部隊なのでベトナムだけにいた軍事援助顧問団では無いんです...
興味ある方に読んで頂ければ幸いです( ◠‿◠ )
インドシナ仏軍軍事援助顧問団 MAAG
1950-1955

1950年9月
トルーマン大統領の命令によりMAAGがベトナムに送られました。
(実はこの時点ではインドシナ駐留フランス軍への軍事援助のMAAGである為MAAG-vietnamではありません。)
彼らに課せられた任務はベトナムで戦うフランスを支援しベトナムの赤化を阻止する事でした。
しかしフランスを直接援助するにも大っぴらに出来ないのでMAAGの役員はサイゴンのオフィスに「私服」で勤務していました。

フレンチニキ「メリケンニキに装備とか支援して欲しい...」

インドシナ駐留フランス軍に対する支援は
当初1000万ドル相当の米軍装備品の支援で、その受払、使用監督をMAAGが担当していました。
その援助品には
M1カービン、M24チャーフィー、ダックハンターの迷彩服などが含まれていました。
そして...
ベトミン相手に悪戦苦闘するフランスに対する支援は急速に増加し1953年時点では3億5000万ドルにまで増加
フランス軍の装備はどんどん米軍の装備になっていったそうです。

1953年フランス軍の陣地は次々に陥落
ディエンビエンフーを陣地化し歴史的には1954年3月13日よりディエンビエンフーの戦いが始まります。
その間、1954年4月にスイスのジュネーブにおいて
平和会談が行われ、
インドシナ問題についてもベトナム民主共和国とフランスの間で議論が起こりましたが難航しました。
しかし1954年5月7日にディエンビエンフーが陥落しフランスの敗北が決まると
ベトナム民主共和国は自国の国土を主張し北緯17度でベトナムが南北に分断さDMZが築かれました。

(3億5000万ドルは吹っ飛びました。)


1955年1月よりベトナム国(南べ)に対する支援へと移行し始め
2月12日アメリカワシントンD.C
アメリカ国務省とフランス外務大臣の間で
これから行われる全ての軍事援助をベトナム国(南べ)に向けると合意。
さらに駐留していたフランス軍をMAAG指揮官ジョン O'ダニエル中将

の指揮下に編入しようと...したのですが
フランスとベトナム民主共和国の合意で1956年4月にはベトナム共和国(南べ)から完全撤退しなければならずO'ダニエル中将以下342名のMAAGメンバーと共にベトナム共和国に対するベトナム軍事援助をすることになります。
ベトナム国国長がバオ=ダイからゴ・ディン・ジェムが大統領になり国はベトナム国から共和制へと移行されベトナム共和国になりました。
そんな変遷の中、MAAGにも変化の時が訪れます。
1955年11月1日
正式にベトナム軍事援助顧問団
MAAG-VIETNAM
になりました。

ジョンO'ダニエル中将指揮下のもと342名のアドバイザーがベトナム共和国に対する軍事援助を開始しました。
この時点をもってMAAG-VIETNAMはM1943 HBTユニフォームやM1947 HBTユニフォームに身を包み南べへの軍事顧問活動を実施していきます。
果たしてMAAG-VIETNAMはARVNと打ち解けあい
ベトナム共和国への軍事援助はどうなっていくのでしょうか?
まだまだまだ続編が有りますのでよろしくお願いします..._φ( ̄ー ̄ )  
タグ :MAAG-VIETNAM


Posted by jones at 19:10MAAG-VIETNAM