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Posted by ミリタリーブログ at

2017年08月21日

MAAG-VIETNAM になってからのお話し

さて、MAAG-VIETNAMとして再編された軍事援助顧問団はベトナム共和国軍への軍事訓練を開始します。

前回書きましたがフランスが撤退することになり
MAAGが主体となり軍事援助活動を始めますが
流石に急に「はい、今日から僕たちアメリカ人が教育しまーす」なんて無理で
1956年4月まで駐留可能なフランス軍に対して
「ちょっと手伝って」と言うことで
1955年アメリカが主導して駐留フランス軍と南ベトナムの間に「エリー・コリンズ」協定が結ばれました
この協定に基づきフランス統制下で引き継ぎの訓練が行われました。
しかしフランス顧問の数はMAAGの2/3に及ぶ217名が駐留しておりました
補給管理など後方支援体制がMAAG管轄なので
次第にMAAGの後方支援体制が悪化しました。
その大きな原因として「人員不足」が上げられます
その理由と言うのも
フランス敗退時に結ばれた「ジュネーブ協定」がありフランス遠征軍が撤退する中で米軍を増員する事は緊張感を高めるとしホワイトハウスとペンタゴンは最悪の事態を危惧しそれ以上の増員は難しいとされていたからです。


1955年末
フランス遠征軍の撤退も進んだ頃新たな問題が浮上します
「フランス軍が撤退の際、武器、装備を含む物資を大量に南べに引き渡した」
のです。
一見何の問題も無さそうな感じ...どころか良さそうな気がします....
しかしフランス人はベトナム人に対して補給管理を含む後方支援運用を訓練していなかったのです。
結果として欲しいものを欲しいように取る感じになり
めちゃくちゃな事になります。
(恐らくこの時ブラッシュパターンなど初期のARVNなどを代表するステータス装備がが大量にARVN空挺やBDQなどに渡ったと思われます。)

そしてさらなる問題も。
ディエム大統領になってから政治面ではディエム大統領反対のカオダイ教、ホアホア教の私兵団が政治を脅かすようになり、さらにその脅かされてる政治も腐敗し行政が悪化していました。
1955年11月18日O'ダニエル将軍は移動になり

ウィリアムズ将軍が司令官として着任します。
ウィリアムズ将軍は着任当初から
「後方支援組織の再編」
「フランス人がもうすぐいなくなる」
「ベトナム軍に散っていった物資の回収」
と山のような任務が待ち構えていまた...

TERMの編成図です。
各任務をセクション毎に分け管理する事で少ない人員での任務の円滑化を図りました。
そして...
1950-54年にフランスに支援した装備品でベトナム軍の部隊に出回った余分な装備を回収し使用可能なものは再度リスト化し同時にする
TERM 「一時装備回収任務」を編成しこれを実行します。
一時装備回収に伴い供与していた余剰装備品などを
得られたそうです。
(この時に回収したM1943HBTなどが大量にあった為MAAGのフィールドアドバイザーは改造HBTや60年になってもM1943を装備してる人が居るのかも??と思いました。)
そしてウィリアムズ将軍はMAAGの部隊増加をさらに求め4年間のうちに888名にまで増やすことを計画します。
そしてワシントンはジュネーブ合意を考慮した上で1960年までに685名までの間に増加させる事を約束しました。

1966年2月
ベトナムにレンジャー部隊(BDQ)が誕生します
BDQは北ベトナムに対してゲリラ攻撃を行う部隊として設立され
15人1チームで運用されました。
サボタージュやスパイ活動をする「特別行動ユニット」長距離偵察など情報収集をする「長距離偵察ユニット」がありました。
彼はらアメリカ本国のレンジャー訓練を受けており
非常に練度が高かったとされます。


南ベトナムで共産主義に対する反発運動が起き、ディエム大統領は立場を強化するために米軍の援助を受けるようになりました
それを機にベトナムの米軍事顧問への攻撃はより頻繁になりました1957年10月22日に、サイゴンのMAAGベトナムとUSISの施設が爆撃され、米軍アドバイザーは負傷しました。
1959年の夏、共産主義ゲリラはビエンホアのベトナム軍基地を攻撃し、数名のMAAG隊員が殺傷される事態が発生しました。
しかしディエム大統領はアメリカの顧問をベトナム軍と戦闘介入する事を嫌っていました。
彼は、アメリカ人がベトナム軍のと共に戦えば、米国がベトナム軍を支配したり、影響を与えるのではないかと心配していたのです。
そして増員された事もあり第77特殊部隊(77 SFGpグリーンベレーの元となった部隊)も特殊部隊のアドバイザーとしてナトラングでBDQ(ARVNレンジャー)などに対する訓練に参加します。
それはまた次回のお話し...

次回「MAAG NCOアカデミー開校」
よろしくお願いします。
  
タグ :MAAG-VIETNAM


Posted by jones at 23:44Comments(0)MAAG-VIETNAM

2017年08月14日

MAAG 1950-1955 仏領インドシナ に、ついて。

今日はみりたりーあしすたんすあどばいざーぐるーぷ
の1950年の到着時から対南べへの軍事援助部隊になる1955年までの話です。
アポカリプス、ベトベト、ちょいナムなど多くのイベントが有りますが
1つとして年代レギュレーションが被るイベントが無さそうな...
はっきり言ってサバゲ位しか戦う場がないユニットの
更に深い裏話です。
因みにMAAGってベトナムだけじゃなくて
MAAG-カンボジアやMAAG-タイ、MAAG-ラオスなど東南アジアの赤化を阻止するべく設立された部隊なのでベトナムだけにいた軍事援助顧問団では無いんです...
興味ある方に読んで頂ければ幸いです( ◠‿◠ )
インドシナ仏軍軍事援助顧問団 MAAG
1950-1955

1950年9月
トルーマン大統領の命令によりMAAGがベトナムに送られました。
(実はこの時点ではインドシナ駐留フランス軍への軍事援助のMAAGである為MAAG-vietnamではありません。)
彼らに課せられた任務はベトナムで戦うフランスを支援しベトナムの赤化を阻止する事でした。
しかしフランスを直接援助するにも大っぴらに出来ないのでMAAGの役員はサイゴンのオフィスに「私服」で勤務していました。

フレンチニキ「メリケンニキに装備とか支援して欲しい...」

インドシナ駐留フランス軍に対する支援は
当初1000万ドル相当の米軍装備品の支援で、その受払、使用監督をMAAGが担当していました。
その援助品には
M1カービン、M24チャーフィー、ダックハンターの迷彩服などが含まれていました。
そして...
ベトミン相手に悪戦苦闘するフランスに対する支援は急速に増加し1953年時点では3億5000万ドルにまで増加
フランス軍の装備はどんどん米軍の装備になっていったそうです。

1953年フランス軍の陣地は次々に陥落
ディエンビエンフーを陣地化し歴史的には1954年3月13日よりディエンビエンフーの戦いが始まります。
その間、1954年4月にスイスのジュネーブにおいて
平和会談が行われ、
インドシナ問題についてもベトナム民主共和国とフランスの間で議論が起こりましたが難航しました。
しかし1954年5月7日にディエンビエンフーが陥落しフランスの敗北が決まると
ベトナム民主共和国は自国の国土を主張し北緯17度でベトナムが南北に分断さDMZが築かれました。

(3億5000万ドルは吹っ飛びました。)


1955年1月よりベトナム国(南べ)に対する支援へと移行し始め
2月12日アメリカワシントンD.C
アメリカ国務省とフランス外務大臣の間で
これから行われる全ての軍事援助をベトナム国(南べ)に向けると合意。
さらに駐留していたフランス軍をMAAG指揮官ジョン O'ダニエル中将

の指揮下に編入しようと...したのですが
フランスとベトナム民主共和国の合意で1956年4月にはベトナム共和国(南べ)から完全撤退しなければならずO'ダニエル中将以下342名のMAAGメンバーと共にベトナム共和国に対するベトナム軍事援助をすることになります。
ベトナム国国長がバオ=ダイからゴ・ディン・ジェムが大統領になり国はベトナム国から共和制へと移行されベトナム共和国になりました。
そんな変遷の中、MAAGにも変化の時が訪れます。
1955年11月1日
正式にベトナム軍事援助顧問団
MAAG-VIETNAM
になりました。

ジョンO'ダニエル中将指揮下のもと342名のアドバイザーがベトナム共和国に対する軍事援助を開始しました。
この時点をもってMAAG-VIETNAMはM1943 HBTユニフォームやM1947 HBTユニフォームに身を包み南べへの軍事顧問活動を実施していきます。
果たしてMAAG-VIETNAMはARVNと打ち解けあい
ベトナム共和国への軍事援助はどうなっていくのでしょうか?
まだまだまだ続編が有りますのでよろしくお願いします..._φ( ̄ー ̄ )  
タグ :MAAG-VIETNAM


Posted by jones at 19:10MAAG-VIETNAM